コロナで1年延期が決まった東京オリンピック2020。
2018年、内閣府青年国際交流事業の日本中国青年親善交流事業に参加した私は、中国の北京、西安、成都、宝劔で
「2020年、東京オリンピックに来てください」
そう言って、中国国内の大学生や宴席の方々に東京五輪音頭を披露しながら、メッセージを送ったものだ。
とはいえ、スポーツに特段興味があるわけでもなく、小学生の時には甲子園中継が夕方18時からNHKで流れる度に
「ツバサクロニクル」や「メジャー」が延期や中止になる状況に毎週ぶち切れていたアニオタが、オリンピックに関心があるはずはないのはなんとなく分かるだろう。
せいぜい、「七つの大罪」の作者がサンデーで連載していた「ブリザードアクセル」とその当時、フィギュアスケートで片鱗を見せた浅田真央ちゃんに感化され、冬のオリンピックのフィギュアスケートを観るくらいが関の山だ。
コロナ禍で最優先すべき資金投入は、人の命を守るために、防疫対策や医療福祉だと思うし、状況が状況だけに、オリンピックにこれ以上お金を投入するのもなんか違うと思う。
そんなある日、Facebookで共通の友達3人がいる方から友達申請が来ていることに気づいた。
正直、誰なんだろうと思い、プロフィール見てみると、その方の勤務先は、オリンピック・パラリンピック組織委員会だった。
「なぜ、こんな凄い方が僕なんかを」
って思う気持ちしかなく、その日の昼食は訝しげになりながら、パンを食べていた。
〜〜〜
話は変わって、10年前。
2010年。
自分が高校2年の時だ。
僕はクラスの中で居場所を感じることができずにいた。
給食の時間に
「このクラスで友達がいないのは植竹じゃね?」
みたいな言葉をいじめっ子が言って、それを頷いたり、反論するクラスメイトがいないクラスにいた僕は、側から見て、ぼっちだっただろう。
「このままでは俺は学校行かなくなる」
そう感じた僕は、二つの制約を課して、自分が学校に行かなくてはならないように仕向けた。
まず文系移動教室の鍵の管理を自分が行えるように担任に交渉して、成功した。
もう一つは、他のクラスの友人たちと生徒会になることだった。
茨城県南に高校生文化祭連合を創り、他校との交流を深め、募金活動で得たお金をチャリティーとして寄付できるようにすること
そして、当時の自分がいた高校の携帯持ち込みを許可させるようにしようと夢を観ていた。
悲しいけど、その夢はクラスのいじめっ子たちと〇〇によって、崩れ去ってしまった。
なんとクラスのいじめっ子たちが僕以外の役職に、立候補し、僕が一緒に生徒会を目指した友人達を蹴落として、当選したのだ。
つまり、2年生の生徒会役員全員が一つのクラスでまとまるという前代未聞な事態が起きた。
もちろん、生徒会長になったいじめっ子は、
「お前は生徒会になりたがっていたんだから、お前一人で生徒会の業務をやれ」
という始末。
僕は一人ぼっちの生徒会を経験することになった。
割と何十回かは死のうとした。
だけど、そんなことで生きる責任を放置したくなかった。
高校2年の8月にあるきっかけがあり、
「自分に精一杯を全力で貫く」
という信念が生まれた僕は、寂しいながらも生徒会を続けた。
文化祭などは他のクラスの仲間たちが助けてくれた。
彼らは僕の宝物だ。
しかし、生徒会が毎年編纂する年間文集は僕が一人で行った。
「この行動に意味があるのだろうか…」
「なんでこんなことやってるのだろう…」
ブラック企業という言葉が出てきた2010年。
僕は、
「ブラック企業の社員は同じ気持ちで働いてるんだろうなぁ」
って思った。
誰にも感謝されず、誰にも見られることもなく、認められずに、虐げられる。
そんな惨めな想いをした僕がそこにはいた。
〜〜〜
話を現代に戻して、自分は学生時代にあまり楽しい経験はしていない。
せいぜい仲間たちと生徒会になるという夢を観ていた丁度10年前が1番愉しかったくらいだ。
そんな僕は、今コロナ禍でも
「どうやってオリンピック・パラリンピックを開催しよう」
「なんとかして選手達に最高の舞台を提供してあげよう」
と日々考えている蔭の功労者たちがいることをすっかり忘れて、
「オリンピックは中止した方が良いかもなぁ」
って思っていた。
でも、それって生徒会活動して、一握りの人にしか認識されてなかった自分を嘲笑うことに他ならないんじゃない?
そう思うと、僕は
蔭の功労者たちを嘲笑うことができるのか?
という問いを自分に問うた。
答えは決まってる。
10年前に夕暮れの生徒会室で寂しく、作業していた僕を、部屋の外から茶化す連中に俺はならない。
大変な状況みたいだけど、大丈夫?
ありがとう。
応援してるよ。
って言うんじゃないかな。