こんにちは
茨城県でメディエイターとして活動している「ともひるね」です。
メディエイター..とは、一言で説明すると、
「様々な組織-職種-分野を越境し、情報を蓄え、異なる組織-職種-分野で収集した情報を活用し、循環を促し、課題解決に繋げる者」
です。
様々な類の人と緩くつながり、計画を細かく立てて実施するよりも、Try&Erorrを重視し、実践していく過程でより良い方法をみんなで考え、対話を促進していきます。
social medietor協会のメンバーと研究したものはまたここで取り上げようと思います。
私自身もファシリテーターをメインの仕事にしながらも複数の組織体で仕事を引き受けたり、NPOや任意団体のプロジェクトに携わっています。
マルチプルワーカーやパラレルキャリアなどの複数の業(なりわい)を持つ人が増えてきましたが、彼らよりも関わる人たちへ伴走支援を行うという点で異なります。
今回は自分がこれまでにどんな人生を送ってきたのかを紹介していこうと思います。
(ここで紹介するのは、自分にとって大事な出来事があった期間です。それ以外の期間については、また後日に投稿しますので、ぜひご覧ください。)
略歴
この前についてはまた紹介します。
COMING SOON
2010年(高校2年生)
高校2年生1学期、クラスでいじめられ孤立した私は学内に居場所を創るために、他のクラスの友人(JRC部の仲間や1年次生徒会だった友人)と生徒会になろうと副会長に立候補しました。
※JRC部(青少年赤十字のボランティア部)
その情報を知ったクラスのいじめられっ子が「お前なんかが生徒会できるんだったら、俺でもできる」と言い、立候補してきました。
生徒会選挙の結果は残酷で、クラスのいじめっ子3人と僕が当選するという2年〇組で生徒会役員が揃う生徒会が発足してしまいました。
生徒会長だったいじめっ子は後輩たちに「植竹一人で生徒会業務させろ」と指示して、後輩たちも協力してくれず、一人で生徒会業務に携わることになりました。
ただ悪質なのは、表に立つところや目に見える部分だけは「自分が準備しましたよ」と言わんばかりに表に立ってきました。
クラスの中でも無視されたりすることがあり、生徒会業務は一人で担うことになり、心労で心を病み、何十回も自殺をしようとしました。
そんな中、高校2年生のJRC部の夏合宿(通称トレーニングセンター)が茨城県常陸太田市の西山荘で行われるということを知りました。
学外の同世代のJRC部の部員の子たちと関わることは一つの楽しみだし、行きたくもない夏期講習も休めるので、気分転換のつもりで参加希望を出しました。
そこでは包帯の巻き方、ロープワーク、骨折の処置方法、フィールドワークを行ったほかに、戦争や赤十字の歴史についての座学がありました。
その中の一つに、発展途上国の同世代の子供たちの現状の映像を見せられました。
「学校に行きたくても行けない同世代の子供たちがいること」
を知った自分には、とてもそれが印象に残っていました。
「学校に行けるのに行きたくない。むしろ、生きたくもない」
と思うような学校生活を送っていた自分は、途上国の子供たちからしたら、とても恵まれている環境にいることに気づかされました。
「今の自分にできる精一杯を全力で貫こう」
という信念に目覚め、トレーニングセンター後に、自分は地元石岡市内でボランティア活動を本格的に行おうとしました。
石岡市は関東三大例祭の一つの「石岡のおまつり」があり、お祭りは非常に有名でした。しかし、お祭りの翌日の朝はごみがたくさん落ちており、そのごみ拾いをやろうという企画を思いつきました。
石岡市役所に「この活動をしたいんです」という相談をしに行っても、役所の課をひたすら回されるだけ。石岡市内には学生が「やりたい」という想いに応える窓口がなかったのです。
結果、石岡市の社会福祉協議会でボランティア団体のコーディネーターをしてくださっている方が引き受けてくれて、自分の企画を行えるように全力で支援してくれました。
(予算書の書き方、事業説明の方法、報告の仕方など)
その結果、市内の石岡二高の生徒会役員と中学からの友人合わせて、18人でごみ拾いを実施しました。
その活動を皮切りに、防犯キャンペーンを警察署の方と実施したり、高校のJRC部の同級生の企画で学校周辺のごみ拾いなども実施していきました。
自分がごみ拾いを企画して実施して以降、石岡市内の中学校や高校では、石岡のおまつりの翌日には清掃活動が行うことが定期化しました。
自分の行動が直接起因しているかは分からないですが、とてもいい活動が増えてきたことは嬉しいですね。
2011年
同年度3月に東日本大震災を経験しました。
日本がそんな状態の中、自分のいた高校は、3月13日から韓国へ修学旅行に行く予定だったのですが、一日ずらして修学旅行を実施しました。
自分は先生方に「修学旅行をどうして決行することになったのか」を尋ねたが、「それは理事組織が決めたもの」だと言われ、教えてもらえなかったです。
東北には自分よりも才能や夢があるような同級生たちが大勢亡くなりました。
「生きたくても生きることができなかった同級生たち」
とその時点でも自己犠牲のように誰かに必要とされたくてボランティアをしていた僕は、修学旅行中に、
「どうして生きたいと思っているような人の命が奪われて、こんな自分が生き残っているのか」
と考えこんでしまいました。
日本に戻った後、石岡市の社会福祉協議会へ行き、災害復興のボランティア活動に参加しました。
「俺が生きている意味はきっとある。だから今の自分にできることをやり続けるしかない」
と思い直し、活動しだしました。
4月に市内の災害救援ボランティアチームの方たちと福島県いわき市小名浜でボランティア活動に数回参加しました。
夏休みには、県内のボーイスカウト(ガールスカウト)の自分と同い年から小学生がいる場で、福島県いわき市での活動について講演をさせてもらうことがありました。
ここで自分は自分の準備不足とプレゼンテーション能力の低さに絶望しました。
大学受験が失敗に終わり、2月に社会福祉協議会のお世話になったボランティアコーディネーターさんにお礼を言いに行くと、その方からBBS会の立ち上げに協力してほしいとお願いされました。
いじめを受けていた側の人間が、どちらかと言えば加害者だったような人の更生保護のボランティアをお願いされても、あまりいい気はしなかったです。
ただ自分は、2012年の時点でLINEを利用する人が増加していることを考えると、今後いじめや不登校になってしまう人が増えてしまうのではないかと被害者の視点で考え、「自分は加害者よりも被害者を救えるかもしれない」そういう想いで自分はBBS会に参画しました。
自分が高校の卒業式が終わり、数日後、石岡市災害救援ボランティアチームの会長だった中村さんが自分を気仙沼市へ連れて行ってくださいました。
気仙沼市を訪れると自分は、その匂いと光景をよく覚えていました。約1年経った気仙沼市は、自分が4月に訪れた福島県いわき市小名浜よりもひどく、潮のにおいを感じました。
「こんなにまだ...復興が進んでいなかったなんて...」
そう思った自分は強くその光景を目に焼き付けました。その日は、3月10日でした。
春休み期間中、自分は高校の写真部の友人たちと災害ボランティアのNPO法人を創ろうと動き出しました。
しかし…
2015年夏
20歳の自分は、一緒に生徒会を目指した仲間たちと再会し、自分たちが生徒会になれなかったのは学校理事組織の陰謀だったことを知りました。
その事実は、当時の自分にとってはとても衝撃的で、大きい組織に所属することに嫌悪感を抱きました。
石岡市防災ボランティアチーム(災害救援ボランティアチーム)の会長になった自分は、副会長で石岡市の青年会議所の40代目理事長の方からの紹介で、「まちづくり大賞」というコンテストに企画を軽い気持ちで応募することになりました。
石岡で災害が発生した際に、水を供給できる場所のマップを製作しようという企画を考え応募すると、一次審査を乗り越えました。
二次審査では20歳の僕一人を青年会議所の30人ほどのメンバーが囲い、プレゼンテーションをするという圧倒的アウェーの状態を経験しました。軽い気持ちで出した企画が死ぬほどコテンパンに質問攻めを受けました。
そんな質問攻めも当時の自分にとっては、非常に前向きに受け取れるもので、これ以上ない圧迫面接を受けたのだから今後どんな場所に立たされても動じないという意識が生まれました。
約2か月後の11月末、「学生が実践するまちづくりとは?」というイベントのポスターを観た自分はそこのゲストの影山貴大という人物に興味が引かれ、翌日のイベントに突如参加しました。
そこにはまちづくり大賞で二次審査を超えられなかった資料を持ちながら、参加すると面白いと受け取ってくれて一緒に行動することが増えていきました。
大学後の卒業の進路は、高校の時から変わらず、青年海外協力隊(JICA)を希望しており、この年は二度応募しました。
BBS会で更生保護のボランティア活動や中学校に入って不登校気味や通常授業の進度に追いつけない子供たちに対して、支援活動をしていたり、石岡市内のボランティア連絡協議会などで企画をさせてもらったり、青少年系の活動で応募をしました。
しかし、この高校卒業後の期間は、非常にストレスを強いる生活が続き、身体的にも精神的にあまり元気が良い状態ではなく、健康診断で二度不合格を頂きました。
就職活動をする気は一切なかったので、地域おこし協力隊なども考えていましたが、車の運転が苦手な自分にとってはどうしても不安の方が多く、次年度の春にまた青年海外協力隊を受けるつもりでボランティア活動に従事していました。
2016年
そんな中、影山さんから「地域コーディネーターという職を確立させたい」という話をもらい、自分はとてもその話に惹かれました。
それは高校時代に自分が企画をやりたくてもその方法が分からず、役所に相談して、たらい回しされ、NPO活動で培った経験をそのまま生かすことができる思ったからです。
「うちの会社は給料とか出せないけどね」
と言ってましたが、自分で仕事は取ればいいと思いました。
結果的にその考えは上手くいき、自分はバイト先のお客さんだった建築会社の社長に「HPとか作れないか」と相談を受け、当時学んでいたクラウドソーシングを使い、HPを安く依頼して、その管理やチラシなどでポスティングを行い、お金を得ていました。
同時にそれ以外は、影山さんのJ-docのメンバーと千葉県松戸市のイベントの参画を始めました。
現在の仕事についてはまた後日書きます。
ご覧になって下さり、ありがとうございました。
またね!
ともひるね